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ガンに怯えて
――『神の心』を持つ医者に会いたい――
改訂2005年9月3日
2005年8月1日
プロログ
わたしに癌(がん)の疑いが出たのは6月のことだ。
5月の半ば、わたしは近くの主治医(ホームドクター)で『横浜市基本健康診査』を受けた。市が50歳以上を対象に行う無料検診である。心電図ほか内科一般検診、血液・尿検査、大腸癌検査が受けられる。去年まであったレントゲン検査がなくなったほか、血液検査の一部項目が削除された。70歳では前立腺の特異抗原(PSA)検査(いわゆる『腫瘍マーカーテスト』)も受けられる(PSAと後述F/T比の説明は、この項の最後に)。
それから1週間後、超音波検査(エコー)の予約を取ってあって、そのとき、前の週にした検診の結果も聞いた。そして前立腺腫瘍マーカーテストの成績に若干の疑いが出たことを告げられた。出た結果は、標準値とされるPSA値4.0ng/mlを僅かに超えた4.8ng/ml。その他の結果は良好であった。
PSA値が標準値を超えたので、6月の初め、紹介状を受け取って、その足で、市内では比較的大きい総合病院Sの外来を受けた。そこで再び血液検査と採尿を行い、次の診察日に行うエコーと排尿検査内容の説明を受けて帰った。この段階でわたしはまだ、比較的緊迫感がなかった。これまで毎年受けてきた人間ドックなどの健康診断で出た疑いで、精密検査の結果が悪かった例しがなかったからだ。
6月下旬、指定された日に聞いたその診断結果は、多少楽観していたわたしを打ちのめした。マーカーの値は4.2ng/mlと低く出たが、それよりも、免疫を示す『F/T比』とかいう標準25%以上の値が17と低いのが問題だという。ついては7月末から入院し、2泊3日の生体検査をやる、とその場で『通告』され、その日の予定であったエコーと排尿検査の後、その生体検査に耐えられるかどうかを事前に検査する、ということで、引き続き血液凝固検査と、再び8本の血液採取、心電図、そして胸部と下半身のレントゲン撮影を受けた。時計は午後1時を回っていた。この日、窓口で精算した金額は、8,000円に近かった。
担当医の態度は、高圧的とまではいえなかったが、有無をいわせぬものであった。こちらの都合を聞くことも慰めの言葉もなかった。生検の日取りも、
「これでも早い方なんですよ」
『部長』と看板にある彼は、机に向いたまま、わたしの顔を一度も見ることなく、そういって話を打ち切った。
「はい、今日はこれでお終い」
そういった幕引きであった。
「外で説明しますから」
と、看護婦も、一刻も早く診察室から追い出したいようにみえた。
中待合室と呼ばれる部屋で看護婦から説明を受け、わたしは窓口で入院手続をして帰った。6人部屋である。3日間だ、我慢しよう。午後2時を回っていて、沈み込みそうな疲労感があった。
7月半ば、前回検査の全ての結果は良好で、7月末と決められた日の検査入院のための注意事項を看護婦から聞くだけの『1分間診療』で放免された。
このころ、わたしはしきりに空咳(からせき)が出た。痰は出ないが気管支の奥の方でイガイガ感がある。肺にも異常があるのではないか、それを怖れていた。今回の検査でその心配はなくなったが、わたしの心は期待していたほどには霽れなかった。窓口で410円を精算し、重たい気分で病院を出た。
この病院の初診受付のとき、癌の場合は本人に告知していいと、確かに申告した。しかし、それが現実の問題となると、やはり冷静ではいられなかった。
わたしが癌と向き合う苦痛の時間が始まり、家でも次第に笑顔を失い、口数が少なくなっていった。明るく振る舞おうとする妻の言動が、無神経なものに覚えた。
――カレンダーが進む。やがてテレビの週間天気予報に入院の日が出る。ああ来週の今頃は、などと思う。恐怖のために、しばしば吐き気を覚えた。
「弱虫。しっかりしろ」
わたしは自分を励まし続けた。
<<参考>>『PSA』と『F/T比』について
PSA(prostate specific antigen)は糖蛋白で、正常な前立腺上皮で作られて精液内に分泌されるが、正常な導管がない前立腺癌細胞や前立腺肥大症の腺細胞で合成される分は血液中に放出されることになる。これを検出する検査方法らしい。『ng/ml』とは、1ccの血液中に10億分の1gの抗原が認められたということだ。現代化学は、ものすごい桁数の微少物質を検出するものだ。
このPSAは、血液中で単独行動をする『遊離型(free)』と血液中のある物質と結合している『結合型(total)』の二つの状態で存在していて、この遊離型PSAが全体の何%含まれているか(free PSA/total PSA)をF/T比で表し、前立腺癌では遊離型PSAが減る(結合型が増える)ため、F/T比は低くなる傾向があるのだそうだ。F/T PSAが15%以下では癌の可能性が高いといわれる。わたしの場合17%だから、ぎりぎりの線といえるだろう。
PSAは感度が高く、早期の前立腺癌でも異常高値を示すのだそうだが、いくつか問題もあるらしい。その一つは、PSAが『前立腺癌』の腫瘍マーカーではなく『前立腺』のそれである、という点で、PSA測定値単独では前立腺肥大症か前立腺癌かは判定できない。つまり、癌だけの判定には使えない、ということだ。これらの検査キットの標準値は健常者の平均から決めているので、肥大症の人の多くがこの値を超えてしまうのだという。
また、検査キットを多くのメーカが製造しているため、遊離型と結合型のうち、どちらのPSAをより良く検出するかが各々のキットで異なり、同じキットであってもバラツキがあるという。だから、病院をハシゴしたりして得た複数の検査結果を簡単には比較も換算もできないし、正常値も異なり、3とするキットもあるなど標準化が問題となっている。わたしの結果が町の主治医では4.8で総合病院Sでは4.2であったのは、そういうことらしい。
ちなみに前立腺研究財団のデータによれば、PSA値が標準値である4ng/ml以下であっても6%の癌が発見されているというし、3.0ng/ml以下でも5%の頻度で存在しているという神奈川県予防医学協会のデータもあるから、PSA検査で標準値内だったからといって直ちに喜ぶわけにはいかない。
しかし、一方では、前立腺癌は進行が遅いため、治療を必要とする大きさになるまでに寿命が尽きてしまうことも少なくないらしい。生前はその兆候が全くみられなかったのに、他の病気で亡くなった人を解剖して初めて見つかる前立腺癌(ラテント癌)の確率は、高齢者では30〜40%にもなるというから、「男なら誰でもなる」という一般認識は大きな間違いではないようだ。
何を怖れ 何に怯えるのか
――これは大事件だ
独りでいると、悪いことばかり考えた。
「情けない」
そんな独り言が、よく出た。他のことに集中しているようで、その言葉は、わたしの潜在意識から突然発露して口に出た。一日に何回も出た。それがどんな感情なのか、何に対して、なぜ情けないのか、自分でも分からなかった。
すでに癌が転移を始めているのではないか、と考えることも怖ろしかった。近年、黒い、形の良くないホクロが身体中にできている。頭皮にも何かブツブツが沢山あって、それが増えているようだ。これらは、もっと以前からあったのか急にできたのか、かたちや大きさの変化を注意深く観察している。空咳もする。方々の関節や肋骨などが痛み、カクカクと音を立てる。今度の『事件』で、わたしのからだは一気に倒壊しようとしているかのようにみえた。
いつまでも、くよくよしている。
――何でオレが
と思う。
前立腺癌はもともと、菜食中心で粗食だった日本では少ない病気だったといわれる。それが食生活などの変化で近年は急増し、少しデータは古いが、1975年には年間約2,000人だった発症者が2000年には23,000人になって、男の罹患数では間もなく胃癌を抜いて肺癌に次ぐ第2位になろうとしているらしい。これには、PSAなど早期発見の検査方法の進歩も寄与しているのだろうが、死亡数も2,000人程度であった1985年当たりから急増し、1990年以降は鰻登りで、2003年では8,400人ほどにもなっている。
癌全体では毎年7万人、35歳から64歳までの死亡者の約1/2を占め、すでに長らく日本人死亡原因のトップを独走してきた。それもあってか、今月11日に行われる衆議院選挙では、各党のマニフェストに初めて『がん対策の充実』という項目が記されている。なかでも自民党の『患者本位の総合的がん対策』は、具体性は乏しいもののわたしの気持ちを代弁してくれる。しかし、治療中の患者が130万人ともいわれる現状に対して、その対策のための予算は厚生労働省と文部科学省併せてもアメリカの5%程度、270億円に過ぎない。
あらゆる癌は、生活習慣病なのだそうだ。しかしわたしは、特に食生活には、十分に気を付けてきたはずである。毎年の人間ドック受検、スポーツジムでの週2のトレーニングと毎日のダンベル体操、自宅に買ってしまったエアロバイク、栄養士である妻が作る食事と栄養管理――これまで『健康』のためにしてきたいろんなものは、一体何だったのだろう、と思う。外見的にも、自覚的にも、日常生活に何の障害もない。体脂肪率14%前後、ウエスト73cmのズボンを履く。わたしに会う人たちは例外なしに、「お元気ですね」と声をかける。それなのにわたしの内部では、いつの間にか悪性の何かが取り付いて成長し、密かに外に出るタイミングを伺っている気配だというのだ。
余計なことをしたものだ、と思った。事の始まりは、あの腫瘍マーカーテストだ。主治医である、あの町医者が勧めた。あんなことさえしなければ、われわれ夫婦はまだ、平穏で幸せな日々を過ごしていたのだ。
しかし、早い段階での発見は、100%完治できるという。前立腺研究財団によれば、PSA値が4〜6ng/mlの間(わたしの場合4.2〜4.8)での癌発見率は20%、6〜10では28%程度だそうだ。これが10以下であれば癌は転移せず、前立腺内にとどまっている『限局癌』である可能性が高いという。
良かったじゃないか、と自分を納得させてみる。
「男だったら、誰でもなる病気ですよ。天皇陛下だって――」
といって、病院Sの部長先生は笑った。
――天皇陛下なんかと一緒にしないでくれ
と、心の中で毒つく。日本一の医師を何人も集めてプロジェクトを組み、万全の態勢でやった手術だ。この病院で、わたしに対してそれができるのか。そんな話が気休めになるか。それに、『誰でも』といわれたところで、ラテント癌を除けば、日本全国で年間数万人の発症者である。つまり前立腺癌の罹患率は、男性人口10万人あたり数十人、という単位なのだ。その仲間に、何で自分が入らなければならないのか。
父が前立腺癌だった話をすると、
「あ、遺伝体質なんだ」
彼は納得したように、嬉しそうに、また笑った。
――何がそんなに面白いんだ
わたしの心は荒れていた。
では、わたしは何を怖れ、何に怯えているのか。
怖れ、怯え、不安、動揺、心配、――適切な言葉が見当たらない。人は言葉で考える。思想や感情や感覚など人の内にあるものは、言葉にしてしまうと、その言葉が作る意味合いによって固定される。すると、自分が持つ真の内面が違うものになっしまうことがある。自分が使うことができる言葉は、限られているからだ。どんなに自分が持っている言葉を駆使して表現したところで、今の自分を説明し尽くしているとは限らないし、まして他人が同じ解釈をして感情を共有できる保証もない。
怖れ――それも同じだ。この字は、今のわたしの感覚に最も近い表現のように思える。しかし僅かに、何かが違う。
冷静に考えてみれば、恐らくそれは、未知への恐怖である。
――何でもないよ。ん、きっと何かの間違いさ
そう考えてみても慰めにはならない。もし、何でもなくなかったときの衝撃が大きいに違いない。
何も考えないようにする――それも一つのテかもしれない。ただしそれは、それができる人だ。わたしの意識から、病院と手術のときの不安と、後遺症への心配が消えることはない。怖れは、病院への信頼度と、未体験の手術と、その後に生ずるかもしれない事態が予測できないことによるものだ。
ならば、とことん考えることだ。あれこれ、グジグジと、考え得るあらゆる場面を想定することだ。それによって、その場になったときの心の対応ができるかもしれない。安全工学における『risk hedge』である。リスクをヘッジするためには、想定されるあらゆるリスクを事前に想定し、それに対処する手段を準備することが必要だ。そのためには、長い時間待たされるのも、却って覚悟が固まっていいのかもしれない、と思った。
不安は、これまでに体験したことのない未知のものに対してである。怖れは、その結果生じるかもしれない状態が見えないからだ。全身麻酔をして、手術に失敗して死んでしまえば、もう怖れるものは何もない。最終的には、何もなくても間もなく死ぬのだ。これから先、20年も30年も生き続けることはできないし、その間にできること、したいこと、しなければならないこと、は、もう、あまり見当たらないからだ。70年という人生は、決して短すぎる歳月ではない。この間、わたしが発表した100編を超える技術論文や講演前刷りは、今では少しカビ臭くなったものがあるとはいえ、この分野では一応、世界に名を知られるだけの仕事はした。思い残すことがあるとすれば、わたしの小説や文語定型詩が売れなかったことくらいだ。最悪の恐怖は、父や母のように、苦しみのたうって死ぬことである。わたしだけはそんなことをしたくない。
『病と闘う』と、簡単に人はいう。しかし、人間が個体として具体的に病魔と『闘う』など、できることではない。闘うためには『医』の支援が必須で、それに頼るのにも限界があり、それなりの苦痛も不快も生じる。後は自分の体力に願って自然の治癒による幸運を祈る以外にはない。それでもそれは、足腰の立つ間のことだ。生きることは楽しみを求めることだろうが、床に伏して動けなくなれば、『生』は苦痛以外の何物でもない。それでも人は、病と闘え、というだろうか。
わたしは、癌が最悪の状態であれば、自分で処置できる体力のあるうちに、自分で自分の人生にケリを付けることを決めた。
父の場合
わたしの父が前立腺癌に冒されたのは、わたしと同じ70歳のときだ。横浜市内に内科を開業していたわたしの叔父(母の弟)のツテで入院していた大学病院に、わたしは母と共に父を見舞った。わたしたちを弱々しく笑って迎えたベッドの上の父は、殊更小さく見えた。そのシーツの間から直径5mmほどの、決して細いとはいえないシリコンチューブ(カテーテル)が出ていて、ベッド下の床に置いてあるカップに落ちていた。カップの中には、1cmほどの赤い液体が溜まっていた。
――痛かっただろう
わたしは思わず目を背けた。恐らく、看護婦は事務的に、淡々と尿道から膀胱にこの導管を差し込んだのだろう。患者の身体的苦痛もさることながら、父の男としての尊厳をどれだけ理解してくれたのだろう。カップに溜まった赤い液体は、その作業の粗さを物語っているに違いない。
――こんなことには、なりたくない
わたしは自分のからだに痛みを感じ、縮み上がりながらそう思った。
その場で病院側と叔父、二人の医者と母が話し合い、癌は既に骨盤に転移していること、手術に耐えられる体力がないこと、高齢であること、などから、手術をしないことになった。
家に戻った父は、叔父のホルモン療法を受け、75歳まで生きた。その間、癌は増殖を続け、ついには表面に飛び出して来てザクロのようにはじけた。父は苦痛に呻き続け、獣のように吠えた。父は玄関の隣にある長5畳の部屋に寝ていた。3畳に1坪の板張りを加え、製図台も兼ねた大きな事務机と天井までの本棚を設(しつら)えたその部屋は、大学を出るまではわたしの勉強部屋になっていて、その後、県庁を退官して一級建築士設計事務所を開いた父が仕事に使っていた。父はやがて、そこから奥の客間に移された。仕事部屋が道路に面しているので、父のうめき声が通行人に聞こえるという理由からだ。
父の容態はますます悪化し、看病のために一緒に寝ていた母の睡眠不足と疲労は極限に達した。誰の目にも、父が回復して再び自分の足で立つことは不可能だと見えた。そして、あの日が来た。
1969年10月19日、その日は日曜日で、上の娘の運動会のため、妻と娘たちは幼稚園に出かけていて留守だった。午過ぎ、いつものように鎮痛剤を注射に来た叔父は母に、
「もう、目を覚まさないかもしれないよ」
といった。母は黙って、弱々しく頷いた。
「オレが見ているから、しばらく眠なよ」
疲れていた母と、ときどき来て母と看病を替わった市役所勤めの姉は、以前父が寝ていた玄関隣の仕事部屋に退いて寝た。
わたしは客間で、父の隣に座って本を読んだ。父は大きな鼾をかいて、珍しくよく眠り続けた。その鼾が止んで、しばらくして、わたしは父の様子が変わっていることに気付いた。父は既に、呼吸を止めていたのだ。
わたしは母を呼び、母と姉は父のからだを清めた。その間、姉は泣いていたが、母は気丈にも涙を見せなかった。それが終わるとわたしは、すっかり伸びてしまった父の髭を安全カミソリで丁寧に剃った。時間をかけて、ゆっくり剃ってやった。
「癌になっても、髭は伸びるんだねぇ」
わたしは父に語りかけ、その言葉が無意味だったことを悔いた。
夕方遅くにやって来た叔父は、黙って死亡診断書を書き、母に手渡した。母は、このとき初めて畳に泣き臥した――報われなかった看病の苦悩と、その代償を一気に清算するように、いつまでも泣き続けた。
その叔父も、今は亡い。この顛末が、少しかたちを変えて、小説『けものの呻きが止むとき』(2004年11月1日〜2005年2月4日連載)になった。
病人の尊厳
尊厳死――わたしも立会人になった父の死に係る『犯罪』は、今は時効になった。しかし、わたしが同じ局面に立つことになるかもしれない今、わたしもこのような死に強く同意する。再び二本の足で立つことが絶対に不可能な危篤の病人を、ただ無意味に延命することこそ人としての尊厳を損ね人道に反するものだと、わたし自身の体験から信じるからだ――叔父の処置と母の選択は正しかった、と。
その後、母はわたしたち夫婦と孫たちとともに生き、父と同じ75歳で死んだ。わたしがいつか、自分の寿命を75歳と決めていた根拠は、こんなところにある。
母の死因は心筋梗塞だと思うが、死亡診断書には『肺炎』となっていた。持病の心臓で、苦しみ抜いて死んだ。救急車の到着を待つ間、あまりの苦しさに、母はニトログリセリンを鷲掴みにして口に放り込んだ。しかし、そのほとんどは畳に散った。
「ころせ、殺せ」
救急車で運び込まれた病院のベッドで、母は親指を自分の胸に立て、ひと晩中そう呻き続けて死んだ。それでも看護婦は、最早探ることもできなくなった血管を手の甲や足に求めて強心剤を打ち続けた。
――そんなに病人を傷付けるのは、もう、やめてくれ
わたしは心の中で叫んだ。
当時、その地域の医師会長をしていた叔父の、知り合いの病院とはいえ、その扱いは粗暴そのものであった。完全看護という名目のその病院の付添人たちは、レントゲン検査のためにベッドから担送車(ストレッチャー)に移すときも、母を丸太かマグロのように扱い、5〜6人でシーツごと、
「せーの」
と放り投げた。文字どおり、放り投げたのだ。
――今どき、レントゲンじゃないだろう
のたうって苦しむ病人にすることは検査ではなく、先ずは本人の苦痛を和らげることだろう。心臓で苦しんでいることは分かっている。長らく叔父が診てきた患者なのだ。しかしそこは、主治医としての叔父が、ましてや家族が、口もきけない瀕死の患者に代わって苦情を言うことなど、許されない場であった。わたしはその場に呆然と立って祈るばかりだった。
一晩苦しみ続けて母の死が告げられた朝、叔父は廊下の長椅子に座り、背を丸め、声を抑えて、いつまでも涙を流し続けた。これで彼は、自分の両親(わたしの祖父母)と全ての姉兄を、医師として自分で見送ったことになったのだった。
ここまで搬送してくれた救急車には礼を言わねばなるまい。しかし、その運転も粗暴そのものであった。まるで公認された暴走行為を楽しむように、元日の深夜、ほとんど車の通りもない街を、居丈高にサイレンを鳴らし、ものすごいスピードで右に左に急ハンドルを切ると、苦しみ藻掻く病人は強い遠心力を受けて激しく揺さぶられた。
――もういいから、もう少しゆっくりやってくれ
救急車の担架の上で、酸素マスクが外れそうになるほどゴロゴロと左右に揺すられ、その度に呻き声を上げる母の手を握り締めながら、わたしは心の中で叫び続けた。母の死後わたしは、何年も、救急車の雄叫び(おたけび)に怯え、夜中でも跳ね起きたりした(『折々の話』2000年6月7日付け『お母さんのピンチ(その1 ピンチの全容)』)。わたしは今でも、救急車の暴走と病院での『マグロ投げ』が、母の死を確定したと信じている。
医療に携わる者たちとその周辺の人たちの、患者の苦痛と尊厳に対する配慮はお寒い限りだ。そしてわたし自身が今、その対象者となっている。しかも泌尿器という、あまり他人に見せたくない場所に係る病だ。
羞恥心もある。生まれ落ちてから親以外の人間に見せたり触らせたりしたことのない秘所が手荒く扱われる。エコーのときは、肛門からプローブ(超音波探子)を挿入して画像を撮る。
「痔があるので、強く当たると出血するのでお手柔らかに」
わたしは部長先生に頼んだ。しかし彼は、
「これが一番いいんですよ」
と、取り合おうとしなかった。エコーの造影上、膀胱には一杯の尿を溜めてきている。親指ほどの太さのプローブで直腸内をグリグリと捏ね回されると、失禁しそうになる尿意に耐える方が、腹痛以上に苦痛であった。
「粗相をする人もいるでしょ」
検査の後でそう看護婦に尋ねると、
「そんな方もおられます」
と、看護婦は曖昧に答えた。次の生体検査は、この日と同じ状態で針を刺し、生体をサンプリングする。彼女の答えが、わたしを一層不安にした。
しかし、考えてみれば、彼らは商売であり、何千何万という患者を診ている。特別に個人の秘部を鑑賞している暇はあるまい。粗相の方も業務の一環として処理し、すぐ、忘れてしまうだろう。彼らにとってわたしは単に、日常的に検査台の上を擦過する患者の中の一人に過ぎないのだ。チェーン・コンベアに逆さまに吊り下げられ、連なって流れてくるブロイラーを、定められた部位の肉や臓器ごとに手際よく切り分け解体して行く鶏肉処理工場の女工たちのように。
そう考えると、一転、ずいぶん気が静まった。
近所の歯医者ではわれわれを『お客様』と呼び、この病院Sでも『患者様』という。しかし実際、『様』付けにされるほどに大切に扱われることは皆無である。病院の理念はどんなに高邁なものであっても、そこに働く人たちの意識がそのように高く保たれているとは限らない。特に老人の患者に対してぞんざいな口を利く看護師は少なくない。彼女らは親しみを込めて、というかもしれない。しかし、場合によっては患者本人が大きな屈辱を味わうこともあるのだ。患者にもプライドがある。親しみと親身とは、人に接するこころの内面において本質的に異なるものなのだ。場合によっては、そのことで、その病院の医療の質そのものを疑われることだってあるかもしれない。このことは、普通の人同士の付き合い以上に心されなければならないはずだ。また、どんな困難があっても、量の不足に質の低下の理由を求めてはならない。なぜなら、医師も看護師も、彼らは傷ついた命を扱うプロなのだから。
怪我人にされてしまった生検
前立腺癌の疑いが出て、生体検査のため総合病院Sに手術入院したのは7月末のことだ。即日、午後3時から検査が行われ、翌日一日様子を見て3日目の朝退院した。2泊3日の滞在であった。
このページでは、手術から退院までの経過や内容などを、かいつまんで記録しておこうと思う。それは、これから同じ病気に罹る人の参考に、少しは役立つかもしれないと考えたからだ。なぜなら、この検査は、手術そのものもさることながら、その後の排尿の成否が回復を左右する大事業で、そのことについては事前に誰も説明してくれなかったし、どこにも書いてなかったからだ。医者は生検の説明はするが、その後の話は、少し血圧が低くなったり体温が上がる人もいます、程度しかしない。だから手術が終われば家に帰り、清々と元の生活に復帰できると思っていた。しかし、この予後の経過が、退院そのものを左右する。それは患者が(本当は、この時点では、まだ癌が確定していないから病人ではないのだが)、医者の手によって『障害者』にされてしまうからだ。
入院の日は7号台風の接近で嵐の出発だった。出鼻から不吉だった。血圧は150に近く、脈拍も90を超え、微熱もあって、極度に緊張していた。喉が張り付くように渇いた。
手術は、前回のエコー同様、膀胱を満タンの状態で行われる。これそのものが、老人には苦痛である。前立腺に打ち込む局部麻酔は一番奥でチカッと焼け、ひどく痛い。
「ちょっと痛いですね」
と部長先生がいう。
「麻酔が痛いなんて、意味ないじゃない」
わたしが毒つく。部長先生は、わたしの反抗を無視してガン(銃)を準備している。
わたしは仰向けに寝て、両足を大きく開いてサポートに乗せられている。女性なら、産婦人科の検査姿勢を思えばいい。肛門から親指ほどの超音波プローブを突っ込み、エコーを見ながら肛門の直ぐ上から検体のための針(バイオプティガン=自動生検装置)を尿道と平行に差し込む。「ダン」という激しい音を立てて、わたしの細胞が器具に吸い込まれる。計8本。手術そのものは、ものの15分ほどで終わる。手術台に乗ってから担架式搬送車(ストレッチャー)で室を出るまで正30分であった。
病室に戻ると、多少呂律(ろれつ)が怪しくなっているのに気付いた。それが局部麻酔のせいか、点滴のせいかは分からなかったが夕方までには回復して安堵した。右腕には、手術のとき、若い看護婦が挿入に失敗した点滴の針の跡が3cmほど、紫色に腫れていた。このアザは、消えるまでに3週間を必要とした。昔は、点滴は看護婦にやらせてはいけなかったような記憶がある。わたしはこの未熟な看護婦を見て、母の臨終のときの強心剤注射失敗を想った。
それからは血尿との闘いである。手術から三日目、退院する朝10時までは真っ赤な血尿が出た。
「これは血そのものではないのか、どうしてこんなに多量に出るのだ、膀胱炎か腎臓か、ほかの臓器が悪いんじゃないのか」
と、しつこく看護婦や回診に来たスキンヘッドの若い医者に追求した。
「長い人は一週間くらい出ますよ」
看護婦はつれない口調で、そういって背を向けた。
「これで貧血になるようなことは、ありませんから」
スキンヘッドは、軽くそう言い放った。
――オレは最悪で例外の人間などになりたくない。普通のケースで退院したいのだ。薬は三日分しか出ない。薬が切れるのは日曜日だ。それでもこのままだったらどうするのか。緊急連絡先はどこか
一種の恐怖に近いモノがあったのに、病院側のつれない返事は、却ってわたしを疑心暗鬼にした。
一日に1.5リットル以上の水分を食事以外で摂る。ベッド脇の台の上には、500mlのペットボトルが何本も並んだ。これ3本以上が一日の目安だ。排尿は2時間おき、夜中でも3回ほど行く。排尿間隔が3時間以上になるのが怖いのだった。事実、時間があくと血栓が出るケースが多い。二日目まで、大きな血栓が出て驚かされた。初めは直径1cmほどか糸様の5mm程度のものだったのが、二日目の昼は2cmくらい、小指の先ほどの塊がドバッ、ドバッ、ドバッと三つ続けて出て恐怖したからだ。一日の排尿は、全てビンに溜められて量を記録される。50ほども並んでいるそのビンで、チョコレート色に濃い液体があるのは、わたし一人だけだったことも、わたしを怯えさせた。わたしだけが例外で最悪なのだ、と。
同じ日に入って手術を受けた3人のうち、一人はついに予定日に帰れなかったようだ。何度もトイレで一緒になり、いつもビーカーに250cc前後溜めるわたしを見て羨ましがった。最初は出たのに、翌日からほとんど出なくなったのだそうだ。導管も着けたという。そして退院の日、われわれと交代して入院するはずだった3人のうち一人が急遽二人部屋に入ることになったことで、彼が退院できなかったことが知れた。尿管に血栓が詰まって排尿できなくなったら、どうするのだろう。わたしはそれを想像して、自分のことのように痛みと恐怖を覚えた。
排尿を成功させる第一歩は手術直後が重要だ。術後3時間はベッドで仰向けに安静にしたまま点滴を受けなければならない。その間、わたしは尿瓶(しびん)を股の間に置きっ放しにし、ひたすら神経を膀胱に集中して尿を出した。初め、膀胱は満杯で手術を受けたはずなのに、まるで出てこない。何度も何度も試み、やっと出たときにはバンザイを叫びたいほどだった。それからも少しずつ出すよう努め、3時間後には尿瓶に半分ほどの真っ赤な液体が溜まった。
退院して家に着くと、入院の日には咲いていなかったサルスベリが二房、ピンク色に風に揺れていた。いつもは邪魔だと思っていた道路の向こうの竹林の緑が新鮮だった。喧しかった近所の犬の鳴き声や車の音が懐かしかった。オナガが下品な声で啼き叫ぶのを聞きながら僅かな昼寝をした。目が覚めるとヒグラシが啼いていた。旺盛な食欲がある。料理学校の先生をしていた妻の手料理が、一段と美味かった。病院では170にも跳ね上がっていた血圧が120以下に下がった。
尿の状態はドラスチックに変化した。退院した日の午後、先ず中間尿がきれいになった。しかし最初と最後には鮮血がある。時には、尿全体が真っ赤になることも、まだ、あった。日中は比較的濁っていないが、夜中には濃い色が出る。そして、目視ではあるが血尿が引いたのは退院して5日目、手術後7日目のことだ。確信ができたのは更に3日後になる。この日、排尿に関する退院時の不安は取り除かれ、自信に似たものがつき始めた。
退院したころは触れても腫れが分かった肛門周辺の患部の痛みで、まともには椅子に座れなかった。胡座(あぐら)もかけない。柔らかい座布団がいけない。風呂の腰掛けのように、中央部が凹んでいて穴が空いているような形がいい。患部に当たらないように片方の尻を浮かせ、無理な横座りをするので、腰の筋肉を痛めた。排便も、力むと痛むので、そっと出す。サンプリングの8本の針(バイオプティガン)で、肛門近くにひどい怪我をしたのだ。幸い、多量の給水で便は軟らかいのが助かる。しかし、健全だった自分の肉体が、たかが検査のためにこれほどまでに傷つけられたことが不条理だと思った。椅子に完全に座れるようになったのは手術から2週間を必要としたが、違和感が消えたのは更に10日ほど経ってからだ。
わたしはこれまで、肉体的な欠陥や損傷はなかった。この段階でも、癌は『疑い』であって、したがってわたしは『病人』ではない。それなのに、わたしは医者の手によって『傷害』を受けた。わたしは1ヶ月近くも、満足に椅子に座ることもできない『怪我人』にされてしまったのだ。PSA値4〜6ng/mlの間の癌発見率が20%ということは、この生検は80%の健常者を障害者にするということだ。
医者は『臓器を診て人を診ず』という。わたしたちの生産分野で『非破壊検査』という手法がある。材料の内部欠陥や表面の損傷・亀裂の深さ、材質の変化などを、材料を傷つけることなく外部から診断するのである。人間に対しても、このように人体を傷つけることなく検査できるような手法を、医者や研究開発者は一日も早く実現してほしい。例えばガン細胞だけを染色し、この色素だけを攻撃する電磁波を体外から照射して消滅させるような、極力人体を損傷しないようなシステムだ。今の放射線治療法は下血したり、直腸に穴が空いたり、みじめな副作用や深刻な後遺症が多すぎる。
医者はいうだろう、
「これが今できる最良のものなんですよ」
と。しかし老人には、この検査はあまりにも負担が重く、酷だから。
退院してしばらくは、座れないので、仕方なく、マットに腹這いになってノートパソコンを叩いたりした。しかし基本的には『病人』で、からだが重い。夜中に2〜3時間おきにトイレに行くので、睡眠不足もある。たった三日間のベッド生活で、折角保持してきた筋肉が緩み、手足の痛みがぶり返したようだ。しかし、重たいものを持つことは禁じられているし、そもそも、あまり歩く気にもならない。
どうしてオレが、と恨む。オレがどんな悪さをしたというのだ。確かに入院していると、自分の程度は軽傷だと思える。6人部屋ではプライバシーは保てない。わたし以外は外科の患者で、世の中にはこんなひどい目に遭う人が沢山いるのだ、自分なんか幸せだ、などと思う。しかしこれは誤魔化しである。病院を出れば、健康で幸せな人で溢れかえっている。オレは何と不幸だろう、と嘆く。
血尿の方に改善がみられ、多少安心できるようになると、今度は次の段階、生検の診断結果が出る8月初め、話を聞くときの恐怖が頭をもたげた。
『経過観察』という不安
8月初め、わたしは妻と連れ立って『審判』を受けるために病院Sを訪れた。生検手術から2週間が経っていた。この日までにわたしは、部長先生から伝えられるかもしれないあらゆる場面を想定していた。すでに妻には、十中八九は癌の覚悟をしておくようにいってある。そしてその場合は手術を選ぶという解答が、わたしの中にできあがっていた。だから家を出てからここまで、わたしは比較的平静であった。
予約の時間を1時間も待たされ、伝えられた言葉はただ、
「8本の針すべてに、癌細胞は認められませんでした」
だった。
――え、それだけかい
『家族同伴』と指定されているからには、かなり詳細が知らされると思っていた。
「エコーには影はなかったんでしょうか」
わたしは慌てて質問した。
「あんなものでは分かりませんよ」
「触診で多少固い部分があるとかいってましたが」
「ははは、あんなものでは分かんない」
なおも食い下がろうとするわたしに、看護婦が、
「外で説明しますから」
と、いつもの通り診察室から追い立てようとした。
触診が無意味であることは以前から知っている。しかし、エコーについては、分からないのならやらなければいい。尿が不足して大失敗だった排尿検査などの結果も、触れられもしなかった。8本も採った血液検査も、何を調べたのか説明されないままだ。ならば、これらの検査は単に老人医療費を増やし、老人の体力を損なうだけのことではないか。
結局『経過観察』ということで、以降、3ヶ月おきにPSAを受けることで放免された。PSAのトレンドで癌化が分かるのなら、初めての検査が標準値を僅かに超えていたからといって、いきなり生検に飛ぶことはないのではないか。もっと聞きたいことがあるのに、ここでは一方的な通告だけで追い出されてしまった。この先生からは、たった一度だって、ついに「どうですか」と声をかけられたことがなかった。どこの病院でも、先ずは患者の訴えを聞く、つまり問診があるものだと思っていた。ここでは、患者側が努力しなければ、患者はただ、ひと言も発せず診察室を出入りするだけなのだ。
癌から解放されたという実感はなかった。安堵も、喜びも、何の感慨もなかった。空しさだけが残った。PSAは町の主治医で受ける。もう再び、横浜では有数の総合病院に数えられるこの病院で泌尿器科の診察を受けることはあるまい、と思った。
「よかったぁ」
そう、妻がいったのは、家に帰り着いて遅い昼食を始めたときだ。その言葉で初めて、わたしにも、ああ終わったんだ、という実感が湧いた。妻もそれまで、この言葉を口にすることを躊躇(ためら)っていたのだ。
妻には心痛をかけた。一番ほっとしたのは妻だっただろう。
しかし、わたしに癌への怯えが全く消えたわけではない。今日は、とりあえず『見付からなかった』というだけで『癌細胞がなかった』ということではないからだ。これからのPSAの経過観察でトレンドが大きくなれば、再び癌の可能性が出る。癌細胞は一度傷付けると一気に増殖を始めるとも聞く。こころが霽れて気持ちが軽くなるわけがない。ただ癌の恐怖を引きずっただけのことなのだ。
病院で見える家族の姿
この同じ病院Sの脳神経外科で、妻の右目の奥に小さからぬ動脈瘤が見つかったのは、5年前の5月半ばだった(2000年6月7日、2000年6月14日付け『折々の話』『お母さんのピンチ――三人の子供たちへ――』)。同じ病院なのに、医者の対応は全く違った。このときのK部長は、検査の経過と結果と、これからできる処置と、それによって、あるいはその後に現れるかもしれないリスクについて、静かに、懇切に説明し、われわれの選択と決断に時間をくれた。われわれは、これ以上の検査や処置が妻に危険を及ぼす可能性はあれ、病の解決に何ら寄与しないと判断して、医療行為を中止した。K部長は、われわれの選択を尊重してくれた。
妻の場合も、かたちは『経過観察』であるが、それ以降、一度も検査に出向いたことはない。妻は自分の頭に爆弾を抱えたまま、今も、表面は元気に生きている。不安だろう。怖いだろう。そう思う。しかしこれ以上、誰も、医師ですら、彼女に何の慰めも手助けもできない。
今回のわたしの検査入院は、子供たちには伝えていない。毎年、親の誕生日には全員が、配偶者や子供(わたしにとって孫)たちを連れて集まる。8月に出る結論を待って、そのときに話そうと考えていた。病気が確定しない段階で子供たちに話せば、きっと、ただ騒ぐだけで何の役にも立つまい、たった三日間のことだし直ちに生死を云々する話ではない今、急いで伝える必要はない、そう考えたからだ。妻にもそのように話してあった。
その妻はわたしの退院の朝、わたしを迎えに来てくれるはずであった。入院費用は妻が持ってくることになっていたから、退院手続は妻を待たなければならない。その妻が、予定の10時半になってもやってこないのだ。前日、病院から手渡された書類には、手続が10時30分から11時となっていた。
「そんなに早く来る必要はないよ」
これまで、とかく予定時間どおりに進まない病院の『実績』から、わたしはそういってあった。妻は、その時間内に来るつもりなのだろう。
わたしは10時前にすでに病室を追われて、指定されている待合室にいる。そこからはエレベータホールが見えた。しかし、いつまで経っても妻の姿が見えない。わたしは不安になった。考えてみれば、妻も頭に不安を抱えた病人である。どこかで倒れているかもしれない。携帯電話にも出ない。わたしは年寄りの二人暮らしの生活基盤の脆さに初めて怯え、子供たちに知らせなかったことを悔やんだ。
その待合室で、寝間着を着た老人が、長時間電話に呼びかけている。今日が手術の日らしい。しかし奥さんが掴まらないようだ。次に彼は娘に電話した。
「母さんが見つからないんだよ。家族に立ち会えって、病院がいってるんだよ」
遣り取りの声が次第に大きくなり、
「もういいよ、バカッ」
と受話器を叩きつけた。彼はまた、別の電話をした。しかし、家族ではないらしいその相手も、今日の付き添いに同意は得られなかったらしい。
「薄情者ッ。バカッ」
彼は掠れた声を精一杯張り上げて電話機に怒鳴った。待合室にいた5〜6人の入院患者と、ベッドのできるのを待っていた3組の入院予定者たちが、この遣り取りを聞いていた。電話相手の薄情で誠意のない対応が、彼の弱々しい呼び掛けから全て、ここにいる皆に伝わって同情をかった。どんな病気かは知らないが、背を丸めてトボトボ歩き、声も掠れて弱々しい彼はもう、家族の付き添いのないまま、今日は一人で手術台に上るのだろうか、
「気の毒に」
誰もがそう口に出したとき、やっと奥さんが、電話機の前に蹲るように座り続けていた彼の肩を叩いた。彼は小さく苦情をいい、それでもひっそりと寄り添って病室に戻っていった。
子供に対する親の庇護本能は絶対的である。しかし、だからといって子供が親のことを同じように考えていると思うのは大きな誤解である。わたしの子供でも、両親に向かって不遜にも、
「自分はこれまで独りで生活してきたのだから、これからも誰の世話にもならずに生きて行く」
と昂然と言い放ったりする。30歳を過ぎてなお、幼児性と非社会性を自ら是正できない人間を口うるさく叱るのは親だからであって、他人であれば黙って突き放されて終わってしまうことだ。
入院や手術を待つ患者が集まる待合室に座っていると、様々な家族の姿が透けて見えてくる。口喧嘩ばかりしている夫婦、寡黙に入室の案内を待つ静かな母と息子、賑やかに冗談を飛ばして気を紛らわせようとする娘、みんな病を背負い、それに押し潰されまいとして、庇い合いながらも日頃の本音が出てくるのだろう。
どこの誰の言葉か知らないが、『他人の病気は密の味』がするのだそうだ。そういえば同室の患者の容態を探り、待合室で面会家族の話に聞き耳を立て、隣とひそひそ話をし頷き合う老女を見ることがある。
「気の毒に」
口先ではそういいながら、腹の中では優越感に浸り、多少とも自分を癒そうとするのだろうか。
エピログ
今回初めて体験した、患部に針を射し込んで細胞を吸い取るバイオプティガンによる生体検査は、人体の損傷による後遺症があまりにも大きかったため、血尿が治(おさ)まりかけ、局部の痛みが薄れて椅子に座れるようになると安心し、一時はこれで全てが終わったような錯覚に陥った。しかし、実はこれはほんの序章であって、本番はこれから迎えなければならないのだ。それを思うと、やはり恐怖が襲いかかってきた。ただ、このようなものを書いていると、幾らか気分が紛れ、苦痛が和らいだ。悩みを他人に聞いてもらう、代償効果のような作用があったのかもしれない。
生検手術から2週間が経った9月初め、癌細胞が発見されなかったと伝えられても、わたしには何の感慨もなかった。わたしがPSA値4〜6ng/mlの間の癌発見率とされる20%内にいるか、それとも80%に逃れるか、ライブドアの社長ホリエモンではないが、この日の通告は『想定の範囲内』に過ぎなかったからだ。80%に逃れ得たかもしれないという実感は、それからずっと後、家に着いて、妻が初めて「よかったぁ」と安堵の言葉を吐いた、そのときであった。
しかし、PSA値が標準値を超えF/T比が極端に低い現実に変わりはない。これから先は『経過観察』となって、一生をこの病と対面し続けることになる。考えようによっては、むしろ切除しなかった分、怯えを引きずった一生を送ることになった。癌への怖れ――確かにそれもある。しかし、わたしが、これから死を迎えるまで、わたしの病に係る人たちがわたしの尊厳にどれほど心を配り、わたしの肉体的・精神的苦痛をどれだけ和らげてくれるか、そのことへの不安も大きいのだ。
『神の手』と呼ばれる手術の名手がいるらしい。しかしわたしはむしろ、『神の心』を持つ医師に巡り逢いたい。例えその人の技が『神の手』ではなく、わたしの処置に失敗したとしても、その人だったら、わたしは満足して穏やかに死ねるだろうから。死そのものに何の怖れもない。死の後に、苦痛はないからだ。死なないことにこそ苦痛はあり、怖れがある。どうせもう、そんなに永くは生きられないんだ、こんな医者に診てもらうくらいなら死んだ方がいい――病人にこんな思いをさせる医療界というのは、一体どんなシマなのだろう。
今回の『事件』で、それまでは単に、間もなく古希を迎え高齢に達して人生が残り少なくなったという漠然とした『観念』から、自分の寿命を75歳とする死の現実が『実感』となってわたしの中に固定するようになった。しかし、このことを、わたしの三人の子供たちは理解できないらしい。親と離れて暮らし、年に何回かしか親の顔を見る機会を持たない子供たちには、このホームページが自分の親の生き様(いきざま)や考え方を知る唯一の情報源である。わたしの場合、癌であっても今すぐ命に係るというものではない。しかし妻の動脈瘤は突発的に命を奪う。古い川柳は『いつまでも あると思うな親と金』というが、親の加齢や死に関して子供たちに切迫感は見られない。例え親子といえども、人間としては別個の個体である以上、それは仕方のないことなのだろう。
妻には強く感謝しなければならない。これまではわたしの母がおり、子供たちもいた。わたしの出張にも、家で一人になったことはなかった。今度初めて、本当に一人だけの家を経験することになった。自分も病気の不安を抱えながら、ずっとわたしの心配をしつづけたようだ。心細かったといった。結果に一番安堵したのは、妻の方かもしれない。平和で穏やかであるべき老後に、こんな思いをさせてしまったことを、深く詫びている。
<<付録>> 入院時携帯品チェックリスト
推奨品目(必須またはそれに準ずるもの)
・入院書類、保険証、診察券、ビニールホルダー
・手帳、住所録・電話帳、テレホンカード、小銭
・パジャマ、下着類、洗面道具(石鹸、歯ブラシ、歯磨き粉、マグカップ)、スリッパ、ビニール袋(大小)
・ティッシュペーパー、ウエットティッシュ
・腕時計、イヤホーン、小物入れ
・常備薬・目薬等(治療中医師指定のもの)
場合によって便利なもの
・洗面道具(電気カミソリ、シャンプー、リンス、フェイスタオル、洗面器、ヘアブラシなど)
・食事用品(箸、割り箸、スプーン、フォーク、ナイフ、楊子、ストローなど)、紙コップ
・カーディガンなど上掛け、ラジオ、S字型ハンガー、扇子、マスク、ポケットライト(または懐中電灯)、
その他
・病院が指定するもの(寝間着(浴衣)、バスタオル、T字帯(褌)など)
・その他『旅の話』の中の『旅の支度――海外出張・旅行―チェックリスト』も参照
・髭を剃り、鼻毛を整理し、耳垢を落とし、爪を切っておくなど、『身だしなみ』も整えよう。入院して暫くはできないから
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