ガン(癌)と薬病
ふたつの死路に流れて
――その1――
(改1)2014年11月15日
2014年11月1日

序の章
序 文(2014年11月)
 この記録は、ある日、突然のようにわたしを襲った病気とその治療、およびその後の日々の考えや行動や生活などの経過を克明に述べたものである。ベースに語られるものは日記であるから、これらの内容は全て『事実』であるが、ここに登場する病院の名称と場所、登場人物の名、などについては全て架空に置き換えてある。しかしそのことによって事実が損なわれることはないと信じる。

 もちろん、この日記が読者にとって興味のあるものになるか、病気になるとからだや行動、考えなどがどうなるか、家族や周囲はどう変わるか、などの参考になるかどうかは分からない。それはこれを読む個々人の環境や感受性や考え方などが違うからだ。また、わたしとは全く異なる病後を経験したり、副作用の程度や種類も違うかもしれない。しかし、わたしがここにわたしの日記を公開するのは、以前から、自分の生きた記録は残しておかなければならないと決めていたし、更に、それを公開して、病にある人も、病を知らない人も、この中に少しでも読者のこころに残るものがあれば、これに勝る喜びはないと考えるからである。

 病名は直腸癌。そしてこれから転移した肝臓癌や骨癌である。
 退院した後でも、パソコンに向かう気にはならなかった。気力がなかった、という方が正しいだろう。それでも、こうしていてはいけない、とその気になったのは、やっとこの時期に来てからである。退院からは5か月が経過していた。しかし、面白いことに、たったこれだけ、と思えるブランクが、わたしからキーボードの文字を忘れさせていた。キーがうまく打てないのである。

 それでも、とにかく書き残さなければ、1999年2月15日、当時の『Just-net』の片隅に初めて場所を借りてページを作り、2002年10月1日 に現在の『So-net』に移管されてから今日までのわたしの存在の記録が失われてしまうことになる。更に、発病前後の自分の感性などの変化の記録も、わたし自身にとって貴重な記録である。これが、もう一つ、わたしを動かす力であった。

 そしてもうひとつ、主として手術後に発生した環境の変化によって生い出た新しい推理小説『死路を隔てて』の構想の成長もある。

 さて、ここでわたしは『突然』といったが、癌が突然わたしを襲うはずはない。これは2007年8月の前立腺癌手術以降に発生したものだ。腸の癌は進行が遅いと聞いていたが、わたしの場合、あれからわずか7年でW期の末期癌に進行していたのだ。今の担当医によれば、放置すれば4、5か月の命だそうだ。
 幾つか公表されている医療機関のデータによれば、直腸癌は、W期になると、5年生存率は10から20%しかないという。しかし、わたしの場合、平均余命(下記)とあまり変わらないから、どうでもいいような感じだ。

 当初、わたしは骨シンチを信頼していなかった。それは2007年8月、前立腺癌で、すでに無事の結果が出ていたからだ。あれから僅か8年余、こんな悲惨な現実が見舞うとは信じがたかった。しかも骨の複数箇所にだ。
 当時、少なくとも骨癌がなかったことは、このときに受けたS大学H病院の骨シンチで証明できる。

 ところで、こに記す記録は完成したものでもなく、わたしが生きている限り未完成である。したがって今書いてある文面は、過不足を補うために、将来ことわりなく頻繁に加筆したり書き換えられたりされるだろう。しかし、その都度それを知らせたりはしないことをお断りしておく。

 実は、このページを発行するタイミングとしては、今はあまり適切ではないのだ。それは、新しく骨癌(恐らくは転移癌)という病の発見と、それに伴う治療の追加、11月に予定していたストーマ(下記)を外す時期のズレ、など、未確定の要素が多いからだ。
 しかしそれでも、この時期にページの発行を強行することを決意したのは、寿命への不確定要素と、『合併症』とすらいえるあまりにも強い治療薬服用による体力の消耗が、書かねばならないという使命感のようなものを今、わたしに戻らせたからだ。それは、わたしに許される『健康余命』が、さほど長くないことにもよる。したがって、このページが定期的に繋がるというお約束はできない。たまたま今日、体調が良かったから、ということでお許しいただきたい。

 わたしは『闘病』という言葉が嫌いだ。人間、どんなことをしても、病と闘えるわけはないからだ。人間には免疫など『闘病』の機能が働いている。しかし、ヒトが『闘病』という言葉を使うときは、罹患している人の精神面をいっている場合が多い。それでも、病は人の『意志』によって闘わせ勝ち取れるものではない。
 では人は、何を持てばいいか。それはひたすら耐える自分の強い『体力』と『意志』以外にはない。

 にもかかわらず、この記録を書きながら、わたしは常に死にたいと思い続けている。したがって、この日記でも、それについて記す時があるだろうが、わたしは哲学者ではないから大層な内容にはならないだろう。ただ、来年3月末まではどうしても生きたい。それは、結婚50年、金婚だからだ。それまで、今はただ、半ば放心状態で副作用――というよりも、もう一つ、『薬病』という病(やまい)に耐えている。したがって、日記などの文面は迫力に欠けるものに止まるだろう(これ、言い訳)。

 今は2週に一度、通院して点滴を受け、これの薬害によって毎日続く不安定な頭と目(視覚)を使って、最低限の日記を書く。しかしながら、少しでも全身が使えるのは 2週目の後半くらいから、せいぜい4日間ほどなのだ。
 毎日は、全身を覆い尽くす、自分の皮膚とは思えないブツブツの痒みに悩まされる。皮膚を触っても、何か一枚被っているようで、自分のものとは思えない。ブツブツは、手当てをしないとカサカサになって剥がれ落ちる。だが不思議なことに、肩から上は痛く背中から下はかゆい。皮膚は弱く、どこでもすぐに出血するから力を入れて触れない。指先の麻痺、深い割れもひどい。踵にも何カ所も出る。闘う余地などないのである。食欲もない。頭が弱く真っ直ぐには歩けない。

いつまで生きるか
 唐突だが、ここで、厚生労働省が発表した平成25年の『簡易生命表の概況』をみると、2013年の日本人男性の『平均寿命』が前年を0.27歳上回り、世界第5位から4位に順位を上げ、80.21歳と初めて80歳を超えた。世界一は香港の80.87歳だった。ちなみに女の方は前年より 0.20 歳上回って過去最高の86.61歳となり、2年連続の世界一だった。
 また『平均余命』については、男女とも全年齢で前年を上回り、男では80歳で8.61年、女は11.52年だった。
 更に、日常的に介護を必要とせず自立した生活ができる生存期間を示す『健康寿命』は男が71.19歳、女が74.21歳に伸びたそうだ。
 これでみても、わたしが生きられるのは健康体でもあと1〜2年、というところだ。

ストーマについて
 これからのページには、断りなしに『ストーマ』が出て来る。そこで、ストーマを知らない人のために、少し長くなるがここで若干説明しておく――というのも、わたし自身がストーマを知らなかったからだ。

 ストーマは、ギリシャ語で『口(くち) (stoma)』を意味することから『手術によって病巣を摘出した後に腹壁に造られた排泄口』を指す便や尿の出口(排泄口)で、手術のあと、腸や尿管の一部を体外に引き出して作った排泄口である。消化管ストーマと尿路ストーマがあり、消化管ストーマには小腸ストーマと大腸ストーマがある。尿管を腸につないで尿を排出するものもあるらしい。わたしの場合は小腸のストーマで、腹部の右側に作られている(右の写真)。

 ストーマの装具交換は、厚生労働省2011年7月5日の通知『医政医発0705第2号』によって『原則として医行為又は医師法第17条、歯科医師法第17条及び保健師助産師看護師法第31条の規制の対象とする必要があるものでないと考えられる』としている。これによって、ストーマの装具交換自体は原則的に誰でもできるが、介護サービス事業者等に対しても、医師や看護師に代わって装具交換を行うことが認められることになった。

 ところが、近頃はどの病院でも入院期間を短縮しているため、退院までに多くの装具を試したり慣れたりすることは困難になった。 わたしの場合も、入院中に病院側が使用した『単品(ワンピース)系』の銘柄を、そのまま引き継ぐことになり、退院後に妻と二人で勉強したり大騒ぎしながら、今日に至っても満足にはできていない。

 この形式は薄くて衣服の上から目立ちにくく、袋だけ交換でき回収量も多い『多品(ツ―ピース)系』に比べれば安価ではあるが、交換時期が数日と短く、厄介である。当家は原則3〜4日であるが、交換作業は一人では出来ないから、妻との分業になる。外部に助勢を依頼しないメリットは、睡眠中でも風呂の中でも、漏れるなど『事故』が発生すれば直ちに『出動』できることである。

謝 文
 今回の病気治療に、妻は甲斐甲斐しく全力で尽くしてくれる。申し訳なく、ひたすら妻の健康を祈る。息子もよくしてくれる。多忙な大学の教授職の合間に妻を支えてくれている。深く感謝している。

おことわり
 この章は、全体に共通したり、説明などの不足を補ったりするために作られたもので、したがって、必要に応じて書き換えられたり、書き加えられたりすることがあるかもしれない。しかし、そのことについて、その都度、この欄や別紙でお知らせしないことを事前にお断りしておく。

つ づ く
 

Homeに戻る